そんなファッションセンターしまむらは、1990年代以降、なぜ他のアパレル専門店に差をつけることができたのでしょうか?それを考えるとき、アパレル専門店同士の競争が激化し、衣料品の値段が下がる分岐点になった1990年代前後にその理由があると考えずにはいられません。
昭和の終わりから平成初期にかけた時期(特にバブルの時期)、日本は裕福で、消費者たちは衣料品にたくさんのお金を使っていました。そこでは、消費者たちは際立つ個性が求め、オシャレな衣料品が好んで着こなしていました。そんな風潮において、「アパレルは儲かる」という空気が生まれ、東京を中心にアパレル専門店が乱立することになります。東京に進出したアパレル専門店の多くは、原宿や渋谷など文化やファッションのメッカである地域にこぞって店舗を構え、新しい時代に向けたファッションをつくりだそうと個性的な洋服やズボンなどを製造・販売。オシャレな洋服を着こなす若者たちのニーズに応えていったのです。
しかし、バブルがはじけ、日本経済が低迷するとともに、そういったブームは一気に去りました。消費者は衣料品にお金をかけなくなり、安くて品質の良い商品を求めるようになりました。
困ったのは、ライバルがひしめき合う東京のどまんなかに店舗を展開していたアパレルメーカーの数々です。どんなに優れたデザインの服を製造・販売したとしも、そう簡単に消費者や振り向いてくれなくなったのですから・・。また、物価の安いアジア諸国で商品を製造して日本で高く売るといった経営手法もその頃には飽和してしまい、結果的に衣料品の相場も下がっていかざるをえませんでした。
東京に進出したアパレル専門店が困ったのは衣料品の相場が下がったうえで、消費者は、衣料品にお金を使わなくなったことでした。さらに、選択肢が増え、自分に合う衣料品以外には目を向けなくなったこともそれらの経営者を苦しめました。そんな時代の状況下、家賃の高い東京のど真ん中で、たくさんの人間を雇って運営していたアパレルメーカーは経営が行き詰まり、次々とシャッターを閉めていったのです。
そんな時代、ファッションセンターしまむらはどこで何をしていたかというと、地方の郊外にとどまり、冷静かつ戦略的に時代を読んでいました。家賃が高くライバルの多い東京23区など都心への進出は敢えて避け、競争相手がいない地方の郊外で地道に店舗数を増やしていたのです。また、そこでは、売れ筋商品や話題になっている商品に頼ることなく、多くの消費者ニーズに応えることを第一にした品揃えを行いました。
衣料品に関心を持つ消費者は、年齢、性別、居住地域などによって、好みはさまざまです。たとえ、ある商品がブームになったとしても、ブームが去ってしまえば全く売れなくなるわけです。そこあたりの消費者動向をファッションセンターしまむらを運営する株式会社しまむらの社員たちは冷静に分析していたのです。そんなことからも、ファッションセンターしまむらでは、実用性が高い衣類から、世界のトレンドを押さえたファッション性の高い衣料品まで「幅広く商品を仕入れること」を心がけたのです。
地道な営業を行ってファッションセンターしまむらが築き上げた商品仕入先はなんと500ヶ所以上。それだけ数多くの仕入先から商品を仕入れれば、消費者の好みは千差万別といえど、嗜好に合う商品は2、3点は見つかるわけです。
1990年代前後、有名なアパレル専門店の多くがこぞって東京のどまんなかに進出し、個性的な衣類を製造し大々的に宣伝していたなか、ファッションセンターしまむらは、消費者目線に立ち、地域の消費者を第一に考えた展開を地道に行っていたのでした。また、そこでは、物流システムを自社内で構築するなど徹底的なコスト削減も行うことで、経営リスクを最小限にとどめる努力を行ってきました。
イソップ物語の「ウサギとカメ」に例えると、ファッションセンターしまむらは、まさしく「カメ」にあたるでしょう。その動きには短時間で見ると派手さがなく、地味かもしれません。しかし長い目でみたとき、着実かつ堅実に利益を積み重ねていたのはカメのほうだったといえるかもしれません。そして、しまむらの売り上げは2014年現在、国内のアパレル専門店のなかでユニクロに次ぐ全国2位、世界でも10本の指に入る存在となっています。1990年代までは、田舎のダサい衣料専門店としか認識されていなかったファッションセンターしまむら。まさかここまで成長するとは、誰が予想していたことでしょう。
そんなファッションセンタ−しまむらは いよいよ東京23区、大阪市、横浜市をはじめとする大都市での展開にも本腰をあげることを明かしています。そして、現時点で展開している都市部のしまむらは軒並み好調とのこと。いよいよファッションセンターしまむらがアパレル専門店のなかで天下をとる日はそう遠くない未来なのかもしれません。